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ジャパニーズ・コネクション part2

昨日のpart1の続きです。

 それから2か月ほどたった6月のある日、
ジャックは1通の手紙を受け取った。
このツアーの主催者、F博士からで
内容は「この計画は失敗した、ついては手数料は返す」というものだった。

 律儀なジャックはさっそく返事を書いた。
「それは残念ですね。もし何か私にできることがあるのなら
おっしゃってください。」

 このジャックの手紙に勇気を得たのか
数日後F博士は本当に電話をしてきた。
ロサンゼルスからである。

 なんと、6日後に日本から116人の若者が来るというのである。

 ここで付け加えておくことがある。
このF博士は単純に事業に失敗したのでなく
はっきり言えば詐欺を働いたという表現の方が正しい。

 ホームステイ受け入れの手続きを取った人たちから受け取った手数料
(返すということではあったが返還はされていない。)と
日本政府から受け取ったツアー代金を持って
どうやらラスベガスへ逃げてしまっていたようなのだ。

 なぜ日本政府が関係しているかというと
このツアーは当時の外務省の外郭の財団法人が
未来ある青少年向けに企画したものだったからだ。

 1971年といえば1ドル360円の固定相場の最後の年である。
たぶん外貨持ち出しも500ドルに制限されていた頃だと思う。

 第2時世界大戦後の日本人海外渡航制限が解除されたのは1964年で
最初のJALパックツアーが発売されたのが1965年である。

 数年前にその最初のツアーの集合写真をテレビで見たが
ハワイなのに女性は着物、男性はネクタイ着用であった。

 それほど海外に行くというのは一大イベントだったのだ。

 であるから、このアメリカツアーの参加者は
若者とはいえ、皆大きな大志を抱いた
大変なエリートばかりである。

 当時の参加者に聞いたところによると
まず、申し込むのに、推薦者が必要で
その後、筆記試験に5回の面接と、
かなりの難関を通り抜けて
プラチナチケットを勝ち取ったということであった。
もちろん、ツアー代金などの額的にもかなりの自己負担があったという。

 話を元に戻そう。
つまり、日本政府はこんな男を信用して
未来あるエリートたちを託していたのであった。

 もちろん、この時のジャックはこんな事情など知る由もない。
わかっているのは、6日後に2週間の予定で116人の日本人がやって来る。
フェニックスには1週間留まるのだが
その間の彼らの宿は、まったくもって白紙の状態であるということだけ。

 日本人を路頭に迷わせるわけにはいかない!

 ジャックは決心した。

 part3に続きます。


 

by arizonaroom | 2013-02-01 20:43 | 異文化 | Comments(0)