カトリックの男子校の5年生のジョシュアは
大好きなおじいちゃんの死がまだ受け入れられない。
おじいちゃんが本当に天国に行ったのか。
誰に聞いても満足な答えを見出せなかった彼は
とうとう自分で神様探しをする決心をする。
けっしてワイルドではないが、適度にいたずらはする
カトリックの男子校の生徒たちがけっこう可愛かった。
果たして彼に答えを見つけられるのか。
こういう映画はエンディングがけっこう難しい。
なぜなら誰もが納得する答えはないからだ。
もし神さまが映画に出てきたとしたら
それはこの映画を単なるファンタジーに終わらせてしまうだけだし、
もし神はいないという結論になるのなら
10歳の男の子を主人公にした意味がなくなってしまう。
その点、この監督は上手にまとめたと思う。
神、幽霊、UFOなど、神秘的なもの、超常現象と言われるものは数多くあるが
それらは信じる者にとっては信じるに足る十分な証拠があると思い、
信じない者にとっては、そんな物は証拠にすらならないと思う。
これらの論争はどこまでいっても平行線で
どちらかを論破できる日はけっして来ないに違いない。
例えば一昨日に紹介した「マザーテレサ」のある場面で
行き倒れの人が「私は渇く。」と言ったことばを
テレサは神のメッセージとして捕らえたが
大半の人はそれは単なる偶然で、
この人は本当に喉が渇いていただけなのだ思ったことであろう。
話を元に戻そう。
ジョシュアがほとんどあきらめかけていた頃、
彼は偶然に親友の家に寄り
発作を起こしていた友人を救ったのだ。
その友人が言う。
「続けろよ。神様探しの旅。
君が僕の家に来て僕を救ったこと。
それはけっして偶然ではないんだよ。」(こんな台詞だったような・・)
そしてジョシュアはとうとう小さな男子生徒に
神の使い(天使)を見たのである。
もちろん男の子は「僕は天使だ。」などと言わない。
翼もない。制服を着たごく普通の男の子である。
しかしジョシュアにはちゃんとわかったのだ。
おじいちゃんは天国で元気にしていると。
神が存在は、信じている者には十分すぎる真実であり、
信じない者には、非科学的な人間の想像の産物だと思う。
偶然を単なる偶然と片付けるか、
それともそう定められた運命だったのだと考えるかは、
それぞれのの自由である。
しかしこれだけは言える。
ジョシュアはこの男の子を神様の使いと信じることによって
やっと心に平安を持つことが出来たのである。
▲ by arizonaroom | 2006-04-30 22:58 | 映画&TV&本 | Comments(0)